論文 レム・コールハース 住宅の構成

0.序論

0.1目的
20世紀の終わりに設計された、レム・コールハースの住宅において、ミースのファンズワース邸や、コルビジェサヴォア邸の影響を色濃くみてとることができる。チャールズ・ジェンクスのポストモダン建築の定義が「ハイブリッド」(混成的)で、「ラディカルな折衷主義」を意味し、その本質として「二重のコード化」(解釈のレベルの重層化)であるとすれば、コールハースの住宅に見られるこのような引用も語ることができるかもしれない。ただし、その引用さきが、近過去であること、その参照がモダニズム建築にあることが、アンチモダニズムとしてのポストモダンの定義とは異なることがわかり、区別する必要がある。たとえ近代建築からの引用が施主の要望であったとしても、ポストモダンの時代に住宅を設計する際、有効であるということがはたして可能なのだろうか?むしろ引用しなければならないというような強迫観念が、住宅を設計する上で「規制」として働き、設計する上での不自由さのみをうみだしているのではないだろうか。はたしてそれは、見るものを、タイムスリップさせるような、時代を遡らせるような役割として働いているということなのだろうか?ミースのようなに理性のレベルでの問題の単純化はまぬがれないが、レムの引用には、機能を失い廃墟のようになってしまった近代の遺産たちをおしつけられ、または、そこから何かを発見してルネッサンス期初頭のブルネレスキのように手探りでそこから再び構成要素の新たな用法を発見しているかのようである。そのとき、近代建築の傑作の中に、とらわれていた発明品たちが、発明のプロパガンダではなく新たな形で役割を付加される。また残された可能性を絞り取っているかのようでもあるし、もっと暴力的なカスタマイズや、変形を加えることによって規制の枠を押し広げることのできる可能性として、考えるような姿勢をみることができる。そこには一貫して、起源を問わないような引用の方法が可能になっている。そういった引用の姿勢が住宅に意匠のレベル・プログラムのレベルでの多様性と対立性を生んでいる。施主の要望を慎重に聞き取り、プログラムに対する繊細な項目作りが、建築を美学的な観点からのみ評価するような狭い価値観からの脱却の契機となっているのではないか。住宅であるということによって、24時間フル稼働する住居のプログラムは細分化され、家族ひとりひとりの要望を解決すべき問題としてとらえられている。言葉を変えれば、人間の空間にたいする欲求を、可能な限り建築家は聞き取り設計し具現化している。家族それぞれの要望は、空間としてや、その表層の中にも差異をもちながら表象されている。繊細なプログラムへの感覚が、近代建築の発明を変容させ、いちから必然性の獲得へ向かわせる。プログラムに対する繊細な感覚は、単一の時間内から建築を開放し、様々な時間枠をもった空間の総体として建築を定義する。
もちろん、近代建築の影響からは語りえない部分、コールハースの発見した現代に建築を設計する際に有効である、ある種の理想を託された思考の断片をみることができる。
また、『錯乱のニューヨーク』のPCM(偏執症的批判法)に関する文章における、絵画の解釈とパロディとして書き換えられた絵画に対する記述の中に、引用における、新たな解釈の方法をみることができる。レムの住宅の中では新たな解釈を与えることによって、古い言葉が、新しい意味を持つようなことが、時代を超えて起こっている。もはや、モダニズムなのか、アンチモダニズムとしてのポストモダニズムなのかの区別は意味を持たない。
その変化の中における、差異化のメカニズムを解剖することにより、その動力や背景にある思想を読み取ることが重要である。
レムの住宅における、近代建築の新たな解釈の表象がいかに現代において、近代建築を引用することを規制としてではなく、可能性としてとられることができるのかを歴史的なパースペクティブとして近代建築の傑作であるサヴォア邸・ファンズワース邸との比較とともに考える。また4住宅の設計プロセスの全体を推測していく中で空間構成原理を、構成要素における近代建築の引用を図版や写真から比較し、読み取ることによって、それらの上部構造<構成>を明るみにする。