「歴史」は創作されたもの

あくまで例え話として、人の寿命が80歳なのは、歴史に載ってこなった事件や事故が原因なのかもしれない、と考えることもできる。

本来は200歳まで生きることができる人間が、ある事件を境に、ある習慣をもつことになったがゆえ、80歳までしか生きられないようになってしまったとしたら。

僕たちは「その事件」に反省することもできづ、改善することもできづ、今を生きているとしたら。

伝統や歴史は、リスク回避の経験的な積層だと思っている。

そこから大きく逸脱し、「新しい」と言って出てくるものは、過去それは失敗としてor高リスクとして回避されてきたもの、にすぎない。または、本当に「新しい」


そう、これを書こうと思ったのは、この「本当に新しい」。ってのが。実は過去おこった封印された事件or記録されてこなっかた「歴史・伝統」に抗う、改善する提案なのではないか?ということ


ミッシェルドセルトーが書こうとした小文字の「history」。大文字の「HISOTORY」にのってこなかった、ちいさな日常的実践のようなもの。




だれかが大声で主張している裏側で、押し殺されて、埋もれてしまう「事実」を見る目。

あまりにも、時間的に間の空いてしまったリスク回避の積層。

あまりにも空白の多い、リスク回避の積層。


あくまで、公にされてこなかった「事件」を目にし、今もなお生き続けている者の存在を前提とした「妄想」。


あまりにも根が深い。がゆえに。不安なほど疑わしい根拠。




に裏付けられた。「新しさ」

「パン」

「空腹な人」と「お腹いっぱいの人」の目の前に「パン」がある。

どっちが「パン」をgetできるか?


1.「お腹いっぱいの人」が「パン」をゲットし、「空腹な人」が猛烈に悔しがる。


ってこともあるし。


2.「空腹な人」がパンをgetし、「お腹いっぱいの人」が《よかったね》っと笑っていることもある。


この話は、「能力は欲求に比例する」という仮説を立て。その仮説を既存の哲学や考え方に頼らないで、自分自身が納得できるだけの理由をこしらえようとしたんだけど。
どうやら、単純に設定した状況でも、結果は複雑なものになる可能性を含んでいる。

「能力」にも「欲求」にも「単純な設定」にも、バックグラウンドがあり、未来があり、例外がある。

おまけに人には「個性」があり、「年齢」があり、「職業」があり、、、etc

うんざり。


でも「信じる」ためには「考える」必要がある。


どっちにしろ!どっち側にいようとも!どんな状況で、どんなバックグラウンドがあろうと。

「パン」をgetするしかない。

横で猛烈に悔しがっている人がいようと、《よかったね》なんていわれようと。だ。







っていうのが「利己」。自分がよければそれでいい。


これは今の僕で。どうやらあんまり良くない。というか、、恥ずかしい。


できればその反対の「愛他」でありたい。


「空腹な人」と「お腹いっぱいの人」の目の前に「パン」がある。

どっちが「パン」をgetできるか?


1.「お腹いっぱいの人」が「パン」をゲットし、猛烈に悔しがってる「空腹な人」に「パン」をあげる。


2.「空腹な人」がパンをgetし、「お腹いっぱいの人」が《よかったね》っと笑っているところに、「パン」をあげて戸惑わせる。


全部あげなくても、半分に割って大きい方でもいい。


「愛他」的な物語。



こうやって「利己」と「愛他」のバランスを取ると、ドラマチック∧ハートウォーミング。

いやまてよ!

「空腹な人」と「お腹いっぱいの人」の目の前に「パン」がある。

どっちが「パン」をgetできるか?


2.「空腹な人」がパンをgetし、「お腹いっぱいの人」が《よかったね》っと笑っているところに、「パン」をあげて戸惑わせる。


【戸惑ったふりをした「満腹」は「腹ペコ」に《ありがとう》もいわず、「パン」を奪い去って行ってしまった。】


(ヒドイ!)

【「腹ペコ」は、「満腹」の背中を見ながら、泣いた。】

(ヒドイ!!)

【「満腹」は「パン」を持って、急いで「飢餓」のいる町へと行き、すぐに「パン」を「飢餓」に与えた。「飢餓」は泣いて喜んだ。】

(めでたし?めでたし?)


【それを見ていた「私」は、「満腹」に《君は、満腹になるまで「パン」を食べ続けたが、その一部を「飢餓」または「腹ペコ」に与えようとは、思わなかったのか?》と聞いた。】

(さぁ。どう答える?)

【「満腹」は言った《あの「パン」のおかげで、「飢餓」は今も生き延びている。お前はそうやって外から見て、文句ばっかりいってる!》】

(何!?)

【「私」は言った《いや。あのね。「私」はこうして物語をキーボードを打って書いてるのであって、そっちの世界にはいけないのだよ。要はね!「飢餓」を助けたいと思っても、できないわけ。》】


【「満腹」は言った《じゃあ、始めからアンタに文句を言う筋合いはない!そもそも俺も、「飢餓」も「腹ペコ」も、全部アンタが作ったんだろ!その責任はどう取ってくれるんだよ!俺だってなりたくて「満腹」になったんじゃない!「飢餓」はもう少しで命を落とすところだったんだぞ!》】

【「私」は言った。《いや。すまなかった。確かに君の言う通りだ・・・・。君がなりたくて「満腹」になったわけじゃないってホントにその通りだ。「私」の不完全な物語に君たちを巻き込んでしまって大変申し訳ない。一つだけお願いがある。この不完全な物語をすこしでも完全なものに近づけていく手助けをしていただきたい。君に「私」の書いた物語を書き換えてほしいんだ。今度君がたくさんの「パン」にありつき、「満腹」を維持するチャンスに出会った時、少しだけ「パン」を「飢餓」や「腹ペコ」に分けてやってくれないか?君がこれまで、「パン」を手に入れるのにどれだけ苦労してきたか、これからどんな大変なことがあるかわからない。もう「私」は一切文句を言わないと約束する。》】


【「満腹」は言った。《おいおい、冗談はよせ。俺はパンを腹いっぱいに食べる事で、「満腹」でいられるんだ。俺が俺であるためには、今までどうり腹いっぱい「パン」をたべなければいけないんだ。「飢餓」が「飢餓」たる由縁は、俺がさっきみたいに気まぐれに「腹ペコ」から奪った「パン」を「飢餓」にやるから、「飢餓」は「飢餓として生き延びているんだ。「腹ペコ」だって「パン」を奪われても泣いてすむ程度のもんだから「腹ペコ」なんだよ!そうだろ!アンタが考えたんだろ?》】


「満腹」「腹ぺこ」「飢餓」を前提として考えられた世界では、その前提を維持すべく時が進んでいく。


世界のほころびを修正するために前提を崩すことを試みる。


前提条件が崩された世界では、「満腹」は「満腹」ではなく、「腹ペコ」は「腹ペコ」ではなく、「飢餓」は「飢餓」ではない他のなにか。新しくできた不完全な世界を、スムーズに進めるための新たな呼び方が開発されるだけ。




「腹6分目な人」と「腹四分目の人」の目の前に「パン」がある。

どっちが「パン」をgetできるか?


うんざり

サブテキスト・分析ツールとして

0.5 サブテキスト・分析ツールとして
『建築の多様性と対立性』 R・ヴェンチューリ著 伊藤公文訳


□建築の分野以外では、多様性と対立性とは広く認められている。
例えば数学においては、根本的不整合に関するゲーテルの定理があり、また文学においてはT・S・エリオットの「難解な」詩の分析とか、美術においては絵画の逆説的な側面についてのジョセフ・アルバースの定義がある。
P33 

ゲーテルの不完全性定理

1)第1不完全性原理
 「ある矛盾の無い理論体系の中に、
  肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

2)第2不完全性原理
 「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
  その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
  その理論体系の中で証明できない」












建築家は、もうこれ以上正当な現代建築の倫理についての禁欲的なほどのことばに臆することはないないと思う。私は、「純粋なもの」より混成品が、「とぎすまされたもの」より折り合いをつけたものが、「単刀直入」よりねじれまがったものが、「明快な接合」より多義的で曖昧なものが、非個性的であるとともにひねくれており、「興味深く」同時に退屈で、「デザイン」されたものより紋切型が、排除せずにつじつまをあわせてしまったものが、単純より過多が、革新的でありながら痕跡的であり、直接的で明快なものより矛盾にみち両義的であるものが、好きだ。私は明白な統一感より、薄汚れている生命感に味方する。私は不整合を容認し、二重性を唱えようと思う。
私は意味の明晰さより意味の豊かさに、外にあらわれる機能より内に隠れた機能に味方する。私は「二者択一」より「両者共存」が、黒か白かというよりは黒も白も、同時に灰色がすきなのである。


二重に意味を読み込んでいくことをいとわない理由として、近代建築の言語の変容から意味の二重性を考えることができる。


しかし、多様性と対立性を備えた建築は、断片的な関心の範囲にとどまってしまわずに、常に全体に対する見通しをもつという特別な責務がある。それが真実性を持つのは、それ自身全体性を有している、もしくは全体性を内に含んでいるからに他ならない。それは排除することで得られる安易な統一よりは、受け入れることで得られる複雑な統一を実現しようとするものである。より多いことはより少ないことではないのだ。
P34・35

「すべての課題を解決することはできない。・・・・・・。建築家は自分が解決したいと思う課題を極度に限定して選びとっているが、それが今世紀の特徴といえよう。たとえば、ミースは建物の多くの側面を無視することで素晴らしい建物を作っている。もし彼がより多くの課題に手をつけたとしたら、その建物はずっと力強さを欠いたものになってしまうだろう。」ポール・ルドルフ
P37・38


ミースよりも繊細にプログラムを読み取っていくことによって、問題をより多く解こうとした。その際、失われている迫力はキャンチレバーによって獲得されている。



「所与の事象を、所与の関心から性格付けようとすると、とかく単純化しすぎるのである。」
P40

建築における多様性と対立性の第二の分類が、プログラムと構造の表現としての形態と内容に関するものだとするなら、第一の分類は方法に関係し、芸術における知覚と、意味の生じる過程そのものに固有の逆説に関するものである。つまり、実際のイメージと想像されたイメージを並列することから生ずる多様性と対立性である。
P44

「物理的事実とその心理的な反応とのずれ」
ジョセフ・アルバース


60年代までに、発明しつくされた視覚言語群を目にした、現代人の連想はもはや建築家の意図するものではないとすることが可能になっている。時代というコンテクストの相違が、新たな解釈の意図となっている。飛行機や船は、もはや現代の技術を表象するイコンなどではなくなった。


エリオットはエリザベス王朝時代の文人の芸術を「不純な芸術」――そこにおいては多様性と曖昧さが追求された――と称し、次のように述べている。「シェイクスピアの劇では、さまざまな意味の層が生じていて」、サミュエル・ジョンソンを引き合いに出しながら、そこにおいては「全く異質の考えが、暴力的につなぎ合わされている」


ボルドーの家は、異質な空間の質をもつ、三つの領域の暴力的な繋ぎ合わせである。このとき、三つの領域の決定的な差異は、空間的に肥大化したエレベーターにより接続され、美的な建築的要素はもはや力を持たなくなる。


「ひとりの詩人がもしどうしても経験的事象をまさにひとつのものであることを、その多様さを認めつつも劇に仕立てあげなければならないとしたら、逆接と曖昧さを用いることは当然のこととしてみなされるだろう。」


複雑で多様なものを語る手段として、「それとも?」「にもかかわらず」といったレトリックが有効である。意匠のレベルだけでなく、プログラムのレベルにおける建築の多様性や複雑性を語る上では、必然的にパラドックスを内に抱える必要があり、移ろい行く意味は通時的に認識され、さらにレムの住宅における一つの特徴でもある、動線の選択可能性により再び、空間のシークエンスは多様化することになる。




□それとも?
多様性と対立性を備えた建築には曖昧さと緊張がつきものである。建築は形態であるとともに実質でもあり、抽象的であるとともに具体的であり、そしてその意味は、内部の特徴からとともに外部の環境から引き出されるのだ。
建築の各要素は、形態としてもまた構造としても、表面としても材料としても把握される。このような固定的でない関係、すなわち多様性と対立性が、建築の方法の特徴である曖昧さと緊張の源泉なのである。
「それとも」という接続詞に疑問符を加えると、たいてい、曖昧な関係を表現することができる。


サヴォイ邸の平面は正方形か、それとも?
P47


「それとも」の問いを可能にすることにより、参照先はあいまいになり、観察者の解釈は開かれる。


□にもかかわらず
建築の意味と用途にみられる対立性の諸相は、「にもかかわらず」という接続詞によって示される類の逆説的対比を含んでいる。それは多かれ少なかれ曖昧なものである。


サヴォイ邸は、外側は単純だが(にもかかわらず)内側は複雑である。

P51


これにたいして、ダラヴァ邸は外観と内観の一致をある程度見ることができるが、水平練窓のつく浮遊するボックスは、サヴォア邸のような内側に、柱により支持されるようなドミノ・システム空間を内包しているわけではない。サヴォア邸という住宅からの、時間的パースペクティヴをもってこのボックスを解釈すると、構法における違いを指摘することができ、内部空間においては設備的な機能や階段空間はコンパクトにユーティリティコアのような形状を取りながらミースのような、流動的な空間を作り上げている。浮遊するボックスに対する解釈は、コルビジェ的である、にもかかわらずミース的であるというように、近代建築へのレファランスとして参照元を行き来しながら解釈が行われるべきである。




「二者択一」を排除するというよりは、「両者共存」を取り入れてしまうのだ。
P52


様々な意味のレべルを有した建築は、曖昧さと緊張を創出するのだ。


外発的要因にたいする、内発的要因による無効化。


様々な意味のレベルを同時に知覚することは、観察者にとまどいやためらいを与えるばかりではなく、さらにその人の知覚をより活発にするのだ。


さまざまな意味のレベルは、どの系譜の延長として据えるべきか、何の引用のどういった可能性の発見なのかの視点の共時的な認識において感覚され、永遠の視覚的消費を許容すする。


部分の特質が全体のための妥協を余儀なくされることもあるだろう。そのような有効な妥協を画策することは、建築家の主要な責務でもある。
P53


レムの住宅においては、むしろ部分の特質、近代との差異化のイコンとしての構成要素はシークエンスにおいても突然出現する。全体のための妥協、調整は差異を強化する。


□移動と多様な意味
  
ある両義的な関係においては、一つの矛盾をはらんだ意味がたいていは他を圧倒するが、多様な構成にあっては、固定した関係は考えられない。このことは特に観察者が建物の内外を歩き回ったり、町まで歩を伸ばしたりするときには、言えることである。ある時、ある意味が主要なものと思われ、しかし他の時には、違った意味が卓越しているようにおもわれることがある。

観察者の動きによって相互に優越的なものとして感じられる。つまり、同一の空間が意味を変えるのである。いくつもの焦点をもった「空間・時間・建築」のもうひとつの次元をここに見ることができる。

P65



(ダラヴァ邸においては、選択可能な動線を複数もうけることによって、多様な空間を観察者の動きによって、意味合いがさらに多様になっている。)






□調整された対立性
現代では、つじつまを合わせるためのひとつの技法として、波乱を引き起こすべく例外を認めることにかけての達人であった。

積極的な妥協を行うことにより、ル・コルビュジェは全体構成の支配的な規則性を、より一層生き生きしたものにしたのだ。
P95


レムの住宅において、調整は暴力的に行われルことがあり、異なる構成原理をもつ空間同士が、さらに異なった構成原理をもった移動空間により、物理的に接合され、無限に連続するような回遊性のある空間によりむすばれている。
















以下に、ダラヴァ邸を分析するためのツールとして、『建築の複雑性と対立性』をしょうごとにまとめていく。



1 ひとひねりした建築

・排除することではなく、受け入れることで得られる複雑な統一


2 アンチ 単純化 絵画化

・問題の限定 と 「そうしたいから」という絵画化以外の方法
・解決すべき問題の非単純化


3 あいまいさ

・物理的現象とその心理反応のずれ
・さまざざな意味の層 と まったく異なるものの暴力的な繋ぎ合わせ

・経験的事象の結合
「それとも?」 「正方形それとも円形?」


4 対立性の諸相

・「二者択一」ではなく「両者共存」
・有効な妥協 「よい空間とともに悪い空間を」
・卓越した意味の、観察者の移動による変化





5 続・対立性の諸相

・意味における両者共存 意味の二重性
・ 機における両者共存 機能の二重性
・ 材料における両者共存 材料の二重性


6 つじつま合わせ 秩序の限界

・相対化による強調のための秩序
秩序に乗らないものが、逆説的に秩序の中で強調される。

慣習の非慣習的な用法
・ 切断と命名 最小限の変異
・ 観察者が新たな文脈で、意味を読み取ることを可能にする


7 調整された対立性

・ 外発的要因による調整の必要


8 並置された対立性

・ 対比的なものの並置による、相対化
・ 脈絡なしの隣接 


9 内部と外部

・ 内部と外部の葛藤と和解を空間に示す
壁をヴォリュームを包む、障壁として考えたとき、外部と内部の意味のマッピングの具現化としてを壁体ととらえる。
・外部と内部の連続性 非連続性

論文 レム・コールハース 住宅の構成

0.序論

0.1目的
20世紀の終わりに設計された、レム・コールハースの住宅において、ミースのファンズワース邸や、コルビジェサヴォア邸の影響を色濃くみてとることができる。チャールズ・ジェンクスのポストモダン建築の定義が「ハイブリッド」(混成的)で、「ラディカルな折衷主義」を意味し、その本質として「二重のコード化」(解釈のレベルの重層化)であるとすれば、コールハースの住宅に見られるこのような引用も語ることができるかもしれない。ただし、その引用さきが、近過去であること、その参照がモダニズム建築にあることが、アンチモダニズムとしてのポストモダンの定義とは異なることがわかり、区別する必要がある。たとえ近代建築からの引用が施主の要望であったとしても、ポストモダンの時代に住宅を設計する際、有効であるということがはたして可能なのだろうか?むしろ引用しなければならないというような強迫観念が、住宅を設計する上で「規制」として働き、設計する上での不自由さのみをうみだしているのではないだろうか。はたしてそれは、見るものを、タイムスリップさせるような、時代を遡らせるような役割として働いているということなのだろうか?ミースのようなに理性のレベルでの問題の単純化はまぬがれないが、レムの引用には、機能を失い廃墟のようになってしまった近代の遺産たちをおしつけられ、または、そこから何かを発見してルネッサンス期初頭のブルネレスキのように手探りでそこから再び構成要素の新たな用法を発見しているかのようである。そのとき、近代建築の傑作の中に、とらわれていた発明品たちが、発明のプロパガンダではなく新たな形で役割を付加される。また残された可能性を絞り取っているかのようでもあるし、もっと暴力的なカスタマイズや、変形を加えることによって規制の枠を押し広げることのできる可能性として、考えるような姿勢をみることができる。そこには一貫して、起源を問わないような引用の方法が可能になっている。そういった引用の姿勢が住宅に意匠のレベル・プログラムのレベルでの多様性と対立性を生んでいる。施主の要望を慎重に聞き取り、プログラムに対する繊細な項目作りが、建築を美学的な観点からのみ評価するような狭い価値観からの脱却の契機となっているのではないか。住宅であるということによって、24時間フル稼働する住居のプログラムは細分化され、家族ひとりひとりの要望を解決すべき問題としてとらえられている。言葉を変えれば、人間の空間にたいする欲求を、可能な限り建築家は聞き取り設計し具現化している。家族それぞれの要望は、空間としてや、その表層の中にも差異をもちながら表象されている。繊細なプログラムへの感覚が、近代建築の発明を変容させ、いちから必然性の獲得へ向かわせる。プログラムに対する繊細な感覚は、単一の時間内から建築を開放し、様々な時間枠をもった空間の総体として建築を定義する。
もちろん、近代建築の影響からは語りえない部分、コールハースの発見した現代に建築を設計する際に有効である、ある種の理想を託された思考の断片をみることができる。
また、『錯乱のニューヨーク』のPCM(偏執症的批判法)に関する文章における、絵画の解釈とパロディとして書き換えられた絵画に対する記述の中に、引用における、新たな解釈の方法をみることができる。レムの住宅の中では新たな解釈を与えることによって、古い言葉が、新しい意味を持つようなことが、時代を超えて起こっている。もはや、モダニズムなのか、アンチモダニズムとしてのポストモダニズムなのかの区別は意味を持たない。
その変化の中における、差異化のメカニズムを解剖することにより、その動力や背景にある思想を読み取ることが重要である。
レムの住宅における、近代建築の新たな解釈の表象がいかに現代において、近代建築を引用することを規制としてではなく、可能性としてとられることができるのかを歴史的なパースペクティブとして近代建築の傑作であるサヴォア邸・ファンズワース邸との比較とともに考える。また4住宅の設計プロセスの全体を推測していく中で空間構成原理を、構成要素における近代建築の引用を図版や写真から比較し、読み取ることによって、それらの上部構造<構成>を明るみにする。

レム・コールハース Rem Koolhaas

レム・コールハース Rem Koolhaas

略歴
1944年、オランダ・ロッテルダム生まれ。幼少期をインドネシアで過ごす。『ハーグ・ポスト』紙記者、デ・ブランケ・スラフィン社の脚本家を経て、ロンドン建築アカデミーで学ぶ。1975年、OMA設立。1995年、ハーバード大学教授に。プリツカー賞(2000年)、高松宮殿下記念世界文化賞(2003年)などを受賞。

論文 レム・コールハース 住宅の構成

目次
0.序論
0.1.目的
0.2.比較・分析方法

1. 本論1
1.1.建築構成要素
1.2.サヴォア
1.3.ファンズワース邸

1.4.1.ヴィラ・パティオ文献
1.4.2.ヴィラ・パティオ図式による設計プロセスの遡行
1.4.3.ヴィラ・パティオ建築構成要素の引用における変異の手法


1.5.1.ダラヴァ邸文献
1.5.2.ダラヴァ邸図式による設計プロセスの遡行
1.5.3.ダラヴァ邸建築構成要素の引用における変異の手法

1.6.1.オランダの家 文献
1.6.2.オランダの家図式による設計プロセスの遡行
1.6.3.オランダの家建築構成要素の引用における変異の手法

1.7.1.ボルドー邸文献
1.7.2.ボルドー邸図式による設計プロセスの遡行
1.7.3.ボルドー邸建築構成要素の引用における変異の手法


2.本論2
2.1.建築構成原理としての都市のメカニズムの使用


3.結論
3.1.結論