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考える
↓
かん がえる
↓
む かえる
↓
み かう
↓
身 交わる
僕のおやすみBGM「小林秀雄講演集CD」の中で、小林が、本居宣長の「考える」説について解説したのが上記の文章。
「考える」の語源をさぐっていくと、「身を交えること」に行き着くそう。
本当に「考える」というのは、形式的な論理によらない、ある観点をもってなんていう、俯瞰した態度をとれないような、こと。「考える」とは身を交えて格闘することだ。
形式的・論理的にかんがえることは、推測することだ。もちろんこれも大事だとおもう。
中沢新一さんの、『イカの哲学』のなかにとっても似た話がある。
受精のとき、卵子は自己を守る免疫を解除して、精子を受け止め、一体化したところで、新たな生命が生まれる。
このときおのおのは、個であることを捨て去り、まったく別の新たな個へと変化する。
これを『超エロス態』と表し、平和論へと展開していく。
自己を保つために、免疫を働かせている状態を『平常態』とし、それと区別している。
もうひとつ思い出したのは、
河合隼雄と村上春樹の対談のなかで、河合は、「モーツアルトは、ほんとに彼の音楽の奴隷だった」というようなこといっていた。
今日は、下北沢で、夜中のバンド練習だった。足をいためてランニングができていなかったので、いい運動だった。
・いそがしそうに働いている友達の話
・バンド名が「ザ・ファック」だと聞かされたこと
からひとり、自転車の帰りみち、上記の三つの尊いお話を思い出す。
どうでもいい今日の出来事は、セロテープ一枚でも、生命のはじまりや、本居宣長の知性、偉大な音楽家、とつなげても、罪はないのがブログの醍醐味ですな。
ちなみに
「セロテープ一枚でつなげる」=「誤解」 である。
さらに、ちなみに
「「誤解」をつみ重ねることが、小説」と、かの村上春樹先生はおっしゃっていた。(『やがて悲しき外国語』村上春樹著)
そして、ちなみに
「誤解」をつみ重ねることが ブログだ(僕の場合)
「誤解」とは 陽気であり、やや軽薄であり、しかし真面目である事 である。
鍛えることはできても習い覚えることはできない自立的な能力なのである。<判断力>の欠如はいわゆる愚鈍といわれるものであり、この欠陥につける薬はない。<判断力>とは、<認識する悟性>と<欲求する理性>とのあいだにあって、形式的な配合であり想像力と理解力とからなる主観的な「バランス」である。この判断力は<快>という形式をとるが、これは外的な形式ではなく実際に何かをやるときのそのやり方の様式に係わっている。すなわち判断力は想像力と悟性との調和という普遍的原理を具体的な経験として生み出すのである。
(『日常的実践のポイエティーク』ミッシェル・ド・セルトー)