ニパフ09 INプロトシアター 高田馬場

霜田誠二さん主催の日本パフォーマンスフェスティバル09の東京最終日を見に高田馬場へ。
三年前からいきたいと思っていたイベントにようやく行くことができた。

ちいさな小劇場のような空間で8組のアーティストのパフォーマンスを見る。
日本・韓国・中国・フランス・フィリピンとアーティストの国籍も多様。

全体をとうして、ほとんどのアーティストが表現の作用として、自身の身体を拘束していたという共通点がある。
作用というのは、表現が進んでいくにしたがって、身体が物理的に拘束されていくという点である。

パフォーマンスという、一見何でもありの表現において、ある規制を作り出すことが表現の足がかりになっているのか、社会的背景を反映してのことなのか定かではないが、パフォーマンスにおいていかに身体を拘束していくか、その拘束にたいしてどのようなアクションをとるのかは重要な位置をしめているのではないかと感じた。
少なくともパフォーマンスにおいて身体を拘束するシーンが出てくるとき、そこには新たなふるまいが生み出されている。
カフカの『変身』を読んだときに感じた、身体的規制による精神の変容がそのふるまいをとうして、さらに本人の意図と反した受け取りかたをされる事にみられる、変化によりうまれる差異の表出を思い出す。


個人的な発見として、いくつかのパフォーマンスにおいて見られる、リレーショナルアートのような参加型の表現が好きではないということだ。
作家の表現の枠組みの中に半ば強制的参加を強いられるという事に、無条件に作家に賛同するという洗脳をおもわせるような表現には拒絶反応を感じる。
もはやキャンパスは出揃っている。



韓国の人のうちわを燃やしながらあおぐというパフォーマンスはすばらしいと感じた。
炎により、あぶりだされる時間と、機能の読み替え、矛盾、一切がほんのうちわをもやしながらあおぐという行為のうちに映し出されている。


人が建物を欲するという欲求のなかには、規制を欲望するということがふくまれているのかもしれない。