音楽 スタジオ練習

今日は二年ぶりに服飾を勉強している友達と三人でスタジオにはいって演奏をした。

僕は七年前にドラムをはじめて、はじめの4年たったときはドラムさえたたければ後はどうなろうとかまうものか!と考えていた。

特別うまくドラムをたたけていたわけではなかった僕がそう感じたのは、ドラムの前では何も考えずにいられたからかも知れない。

そう思ってすぐに、僕は感覚だけを頼りにたたくドラムにただ快楽を求めていただけなんだとかんじ、演奏することを避けるようになり、それから音楽から距離をとるようになっていた。

今でも快楽は悪だと思っているし、そう考えることは間違っていないと心得ている。
もっというと快楽の強度にたいする認識の稚拙さが悪。
そう心得ていようとも快楽を求めることを大事だと考えることは、油断した隙をついて、怠け心と一緒に僕を後悔まで連れ去っていくことがある。
僕はすごくだらしがない。

こうやって懺悔や内面の吐露をするために、このブログを書き始めたわけではないのに、この文章を削除せず、それこそだらしなく残してのは、またよみかえす度に僕をしかりつけるいい薬になるんじゃないかと感じているからかもしれない。

耳鳴りがのこったまま、言い知れぬ開放感に懐かしさを感じながら少しでも、今の僕なりに演奏した体験をとうして気づいた事を
記録しておこうと思う。

・何よりも快楽を感じていたのは、即興演奏のなか息がぴったりとあう瞬間であった。
・酸欠になりそうになりながら、リズムを維持することに徹底していた。
・人の演奏に耳を傾けながら、リズムをさぐっていた。
・山場では演奏は聞こえていない。
・自分が意図せざるとも、たたくドラムのリズムにはどこかの何かに影響されたものであること、それを敏感に読み取る受け手が演奏するメロディーはたしかに聞いたことのあるようなものだということ。
拘束しあう関係性の中にこそ、あいまいであった意図が浮き彫りにされていく。
それは最初のリズムがもっていたものでも、受け手が演奏するメロディーがもっていたものとも少しだけ違うにもかかわらず、
その意図が浮き彫りになっていく。
・ケモノの鳴き声は、もつれ合い重なりあうことによって、少しだけ音楽のように聞こえる。それは音楽のようであるものにすぎないけれど、あまりにも音楽のように聞こえるので音楽だと認めざる得ないような感覚がうまれる。
無足で前進することもできる、それは歩行ではないが、前進や後進、すなわち移動しているかしていないかの観点においては、歩行と並列にならべることができる。
高等文化的表現をとれないとしても、ある観点を設定することによって、それが高等文化と並列にならべられるということが起る。

自分に仮想の過去の自分の仮想の地図をあてはめて、脱出するための出口をみいだすごとくあがくのではなく、地図をどうやって読みといていくか、どうやって現実と地図を照合していくかあがくべきかもしれない。