『アフターダーク』  村上春樹 著

記憶は燃料である 炎は焼く紙の内容などきにしてはいないカントもグラビアも関係なく燃やしていく 記憶とはそのような燃料である


ラブホテルの従業員のコオロギの記憶についてのセリフの大筋はベルグソンの『物質と記憶』におけるイマージュのありかたに照らし合わせて考えてみると、その理論の中で、記憶は無意識の領域にとりこまれ意識を支えるようにして働きかけるものだとして扱われている。それは、『アフターダーク』のなかの先のセリフの「燃料」のメタファーを認知における無意識の働きを示しているものであると考えることが出来る。
記憶は「なにものか」におわれつづけ身を隠しながら生きているコオロギという女性の生きる『燃料』となっている。
コーヒーカップをコーヒーカップと認識するのは(できるのは)過去にコーヒーカップを手にした記憶をもとに可能になっている。乱暴に言えば、そのように働く「記憶」のことをベルグソンは「イマージュ」とよんでいる。
『アフターダーク』のなかのコオロギの立ち位置は、外の世界(社会経済的空間)のなかにおいては、身を隠すことを自身に強いているが、そのような状況の中で、過去の記憶をたよりに内の世界(ユートピア的空間)を構築し、しかしその世界においては「現在の自分」という異者である。

そのような立場は、『アフターダーク』の中において、読者はカメラの視点で、追体験することになる。外部のない、内部における異者として与えられたカメラという視点をとうして、その中で読者は振る舞いかたを強制される、規制としてのカメラの視点は、「見る」という行為を極限まで行おうとさせる(というよりもそれしか出来ない)。

夜から夜明けまでという時間の境界よって、描かれる外と内の世界は、どちらにおいても異者であるものをとうしてよりその特殊性をむき出しにしていくと共に、転倒させ境界を溶かしていく。

夜から夜明けへとかわる空の色、そして夜明けのそらの色のなかに、月はのこされたままたたずんでいる。