『日常的実践のポイエティーク』覚えがき

  • なにか別のものに移行するありかた-

「メタファーとは、あるものにたいして、本来は別のものを指す名を転用することである。」
アリストテレス詩学』1457)

  • フロイトが観察したのは、生後十八ヶ月になる男の子の遊びだが、その男の子は、糸巻きを遠くに放り投げては、オーナー(fortすなわち「あっち」、「いった」、または「なくなった」)という満足の声をあげ、巻きついた紐でまたたぐりよせては、うれしそうにダー(daすなわち「ここ」、「もどってきた」)と声をあげていた。糸巻きが母親代わりをしているわけだが、ここでは、その母親との一体化からひきはなされる(危険をはらんだ、しかしこころはずむ)分離のプロセスだけをとりだしてみれば十分である。この母親の離別(糸巻きは母親の姿を隠してはまたあらわす)は、不在を基礎にした位置確定と外在性を形成している。幼児は、この歓喜にみちた糸巻き遊びのおかげで、母親がわりの物を「向こうへやり」(その対象と一体化した)自分の姿を消すことができるのであり、他者がいない(からこそ)そこにあることができるのであって、そのときかれは、かならず、消えうせたものと結ばれあっている。この糸巻き遊びの操作は、ひとつの「原初的な空間構造」である。-
  • 反-美術館 -
  • 物語の散逸は、すでに記憶しうるものの散逸をしめしている。事実、記憶とは、反-美術館だ。それはどこといって場所を定めることのができないものである。この反-美術館は、寄せ集めた破片を、記憶の中にちりばめている。そこに、ひとつの過去が眠っているのだ。歩いたり、食べたり、寝たりする日々のしぐさの中に過去がねむっているのと同じように。在りし日の革命の数々がそこでまどろんでいる。思い出とは、ふと通りかかった王子にほかならず、その王子が、一瞬パロール無きわれらが話の眠れる森の美女を目覚めさせるのだ。-

  • 物語は空間の遍歴-
  • 今日のアテネで、公共交通機関はメタフォライとよばれている。仕事に出かけたり、帰宅したりするのに、人々は「メタファー」を-バスか電車を-つかうのだ。物語りもこの美しい名で呼ばれてもおかしくないだろう。毎日これらの物語は、色々な場所をより分けては、また一緒に結び付けている。場所をつかっってさまざまな分を組み立て、{道}筋をつくりあげるのだ。物語は空間の遍歴である。
  • 場所-
  • もろもろの要素が並列的に配置されている秩序(秩序いかんをとおす)のことである。したがってここでは、二つのものが同一の位置を占める可能性はありえないことになる。ここを支配しているのは「適正」かどうかという法則なのだ。つまりここでは、考察の対象となる諸要素は、たがいに隣接関係に置かれ、ひとつひとつがはっきり異なる「適正」な箇所におさめられている。場所というのはしたがって、すべてのポジションが一挙に与えられるような布置のことである。そこには安定性がしめされている。-
  • 空間-
  • 方向というベクトル、速度のいかん、時間という変数をとりいれてみれば、空間ということになる。空間というのは動くものの交錯するところなのだ。空間は、言ってみればそこで繰り広げられる運動によって活気づけられるものである。空間というのは、それを方向づけ、時間化する操作が生み出すものであり、そうした操作によって空間は、互いに対立しあうプログラムや相次ぐ諸関係からなる多価値的な統一体として機能するようになる。-
  • 空間と場所の関係は、語とそれが実際に話されるときの状態とひきくらべて見ることができるだろう。つまりそのとき語は、それが口にされる状況の曖昧さをひきずっており、多様な社会習慣にそまった言葉に変わり、ある一定の現在(またはある一定の時間)における行為としてはっせられている。したがって空間には、場所とちがって、「適正」なるものにそなわるような一義性もなければ安定性もない。-