yutubism   「かもめ児童合唱団」






詩的な言葉をコドモが歌うとどうして、こんなにも美しく聞こえるのだろうか?
それがむつかしい言葉であればあるほど、言葉は、作詞家からも、歌い手からも、聴衆からもはなれて、宙に舞う。
聞き手が、ばらばらになった単語を、コード化しようとするのをなにかがさまたげている。
たしか上野で、アーサー・ビナードの朗読をきいたときにも同じような感覚があった。
島袋道浩さんの『わけのわからないものをどうやって引き受けるか』という作品は、まったく日本語のわからない、ドイツ人が日本語の歌をうたっていたが、そのときにも同じようなことを感じた。

「言葉はたどたどしくとも、詩やメロディーは美しい。記号性や、音階は、言語の発声のしかたによってきえない強さがある。」とわけのわからないことを書いている。 大事なのは「たどたどしさ」のほうだ。


僕は、クリスチャンの幼稚園の学校にかよっていて、毎朝聖歌(?)を歌っていたのだろうけど、そのころのことをまったく思い出せない。
すくなくとも、いまのようなやりかたで、「わけのわからないもの」を引き受けていたともおもえない。
記憶は消えないというが、ヒントになりそうな「歌い手」であったころの記憶は、いっこうに現れてこない。
たとえ、そのときの感情を思い出しても、体は大きくなりすぎていて、まったく別の響き方で、まったく別の音がなるだろうから、
今の僕は、それをちいさかったころと同じようには言葉にすることも、感じることもできないだろう。
思い出しているのに、気づかないだけなのかもしれない。
ただいくつかの記憶が「かもめ児童合唱団」の歌をきっかけに、整理されていく。

「遥か遠い国の夢はまぼろしか 憧れ引き連れて船出する」