「kisouchiし直すこと」・「 zoologicalに考える」・「村上春樹のエッセイ」

「kisouchiし直すこと」
きづいたら4ヶ月間ブログを3日に一回くらいのペースで更新している、僕にしては珍しいくらいつづいている。
webネアンデルタール人くらいには進化した。
やれやれ(村上春樹風)読書録だったはずが、実は月に六冊くらいしか読んだり、ちゃんと感想を書いていないところはダメダメで、読んできた本の種類ももずいぶんメチャクチャ。おまけにわけのわからないことをペチャクチャ。
ものごとを書きながら考えるタイプなので、いつも積分的文章で、あいまい。コンテンツ性ゼロ。
mixiにリンクを張ってからというものの、文章は、はじめたときより、脳が弛緩した文章に。
(笑)やwwwを平気で使いこなせるようになる。途中「です・ます」にトライしてすぐ挫折。


「完璧なブログなど存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」

っと「村上春樹風に語るスレジェネーター」を使って、反省しない自分を肯定する。(村上ファンとしては、「村上春樹風に語るスレジェネーター」は本来、批判のマト)


もうすこしキチンと、kisouchiしないと、建つ家はグラグラ揺れてしまう。トホホ
陽気に、やや軽薄に、しかし真面目に。(『彼岸先生』島田雅彦








「zoologicalに考える」
http://d.hatena.ne.jp/kisouchi/20090420/1240232979)からまたしつこく考える。
zoologicalでは「動物学的」になってしまうので、本当は、zoological garden(動物園)から考えるかもしれない。

僕は、一年前に北インドを一ヶ月かけて旅行したことがあった。
到着した空港から、うわさのドタバタがはじまるのだけど、ここでは省略。
無事タクシーに乗り込んだ僕は、首都ニューデリーの中心部は向かう。ニューデリー着日本発の便は、夜に到着する便しかない。たくさんの悪いうわさをきいていたので、緊張していた。
タクシーにのり込み、町を眺めていると、、、そこはもう想像をこえていた。
電柱は、火花を散らして爆発しているし、車がとまるたんびに子供が、窓をばしばしたたく。道路は舗装されておらず、土。
「東京を、ひっくりかえして、グルグルかき混ぜたみたいな場所だ」
と悪いくせのメタフォリカルな偏見が発動。
いまでも、インドのことを考えると、電柱の火花と、土ぼこり、東京がさかさになってグルグルかき混ぜられる風景が浮かぶ。
東京生まれ東京育ちのコンビニエンスなパックづみシティーボーイには、ちょいと刺激のつよい場所だった。

それは置いておいて、町の中には、牛・猿・象・ヤギ・犬が、あちこちで、プラプラと歩いている。
ご存知のように、ヒンドゥー教では、牛は崇拝の対象である。
それでも八百屋の野菜を食べようとしている、牛は、おじちゃんに背中を棒でピシャリっと叩かれる。
牛は「やれやれ」っとゆっくり移動していく。
朝早くに町を歩いていると、眠っている大きな牛のおなかの辺りで、たくさんの子犬がすやすや眠っている。
インドでの牛と人間の関係は、「崇拝」なんていう堅苦しいものより、もっとほほえましい。
世界遺産を見に行けば、敷地内でたくさん犬が日向ぼっこしている
マーケットに行けば、トタンの屋根の上を、猿がキーキーいいながらバタバタ動きまわっている。
ヤギの群れをつれたおじさんは、ニューデリーオールドデリーをつなぐ橋の上を、歩いている。そのうしろで、オートリキシャのおじさんが、クラクションをビービー鳴らしている。
まるで檻のない動物園。モーモー キーキー ワンワン ビービー

そんなことを思い出しながら、こないだ行った動物園の「檻の向こう側」の動物たちのことを考える。
今度は「檻のあちら側」が実は「檻の外」で、「檻のこちら側」が「檻の内」だったんじゃないかとすら思ってしまう。
檻で囲われているのは、僕たちなのかも!なんて猿の惑星さながらのSFな世界感が憑依する。
「檻の外側」は実は「檻の内側」で、ということは「檻の内側」は実は「檻の外側」なんていう「クラインの壺」的空間。



肉食動物を檻の中に捕らえているおかげで、僕たちはあれこれ余計な事を考える事ができるようになった、と聞いたことがある。
たしかにそうじゃないと、四十八手なんて考えつかない。野生動物の交尾はシンプルで早い。命がけ。
四十八手考えっちゃってる方を檻に入れたほうがいいかもしれない。






「服」

行ったことはないけど、フィリピンには、裸族の集落がある、彼らは文字どうりハダカで生活している。
皮膚がかなり強いそうで、森の中に入って行っても、かすり傷ひとつしないという。ゴアテックスのジャンパーも、ズボンもはかない。
かのクサナギ先生は、「ハダカでなにが悪いんだ」という名言をのこしたというが、
僕はnewsを見て「服って国家に着せられてるんじゃないか。」っと今度は、バナキュラーな裸族的世界観が憑依した。
一万光年離れた星から、地球を望遠鏡で、眺めればみんなハダカだ(たぶん)


「服って国家に着せられてるんじゃないか。」
「それは、けったいな言いがかりを」
「じゃあ、あれですかハダカで外歩いちゃいけないって、法律でもあるんですか!?」
「あります」
「・・・・・」
「あーやっぱりー、服って国家に着せられてるじゃんか。フン!」

服を着ないと、手錠を着せられる。ハダカに手錠の趣味はないので、国家に着せられていようと僕は服を着る。
「服を着ていてなにが悪いんだ。」
多分洋服屋さんの息子さんが、政治家になって、「服は着ないとダメ法」をつくって親孝行したんだろう。(たぶん)
国家の提唱する、「着こなし」なんてのも実はあるのかもしれない。(ないかな)
「国別宗教別・限界ギリギリファッションショー」











村上春樹のエッセイ」
今の今まで、村上春樹のエッセイを一度も読んでこなかったが、ここ一週間で一気に三冊読む。
『うづまき猫の見つけ方』『やがて悲しき外国語』『日出る国の工場』の三冊。
ランニング後のなが風呂のお供に、通学時に、読むというのが、村上エッセイの正しい読み方である。たぶん おそらく 絶対に。
『日出る国の工場』では、コムデギャルソンの工場から、人体模型工場、アデランスの工場などの見学レポートで、
工場の選択もさることながら、そういった工場に対する態度や、ものの見方、書き方がすばらしい。
「政治家を作る工場」はどんなだろうという、工場的思考はとってもするどい。プレハブやトタンで囲われた工場で
モノができるプロセスは単純ではなく、クラウド化している。
『うづまき猫の見つけ方』は肩力がぬけていて、よんでいて、とても心地よかった。
『やがて悲しき外国語』のほうが先に書かれているが、アメリカにおける反日感情のありかたが、日常的なレベルで
描かれることによってあぶりだされ、90年代中期のアメリカにおける「ニッポン観」がうかがい知れる。

どのエッセイもサーヴィス精神旺盛な落語のような語り口で、村上小説とはちがった面白さがある。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

日出る国の工場 (新潮文庫)

日出る国の工場 (新潮文庫)