僕たちはバス停で意味のあることを話す  -マイクロアーバニズム-

あなたはこれまで屋外でバスを待っているときに、何か意味のあることを言ったことがあるでしょうか。けっしてないでしょう。あなたは建物の内部で意味のあることを言います。

ルイス・カーン建築論集』第6章p116


初老の女性二人組みが、下北沢の深夜のマックで「もし今度生まれ変わったら、男か女か」という話を永延していた。
僕はなんかいいなっと思い。その後つづく壮絶なトランスジェンダーな議論や、結婚哲学にしばらく耳を傾けていた。
まさに環境管理型設計の代表格である、マクドナルドの店内で、すこし硬いイスに座ってj-popをBGMに意味のある(?)話がされている。




たとえば、高校生のカップルが、バス停で「君が好きだ」「わたしも」なんていっていたら。
僕はなんかいいなとおもってしう。体育館裏もいいけど、バス停。

たとえば、高層ホテルの70階のバーで、高校生のカップルが、「君が好きだ」「わたしも」なんていっていたら。
肩がこりそうだ。そういうのが好きな人ってもうそんなにたくさんいないんじゃないだろうか。













僕たちは、何の変哲もない日常的な風景の中で、場所で、意味のあることをことを言うことに躊躇しない。
人生における決断や、プロポーズの言葉や、ビジネスの契約を。
場所を選ばなくなったのか。そうすることに特別な価値を見出しているのか。









かつて建築は、じっくり腰を据えて、意味のある事をはなす所だと考えられていた。


妹島和世さんは、「人が建築の中をごにょごにょと動く建築を設計したい。」とおっしゃっていたそう。
妹島さんの住宅に住んでいる人は、家具なり自分の愛着を感じているものを側に置いておかなければ、決して暮らせないといっていたそう。







宮台真司さんは「シニフィアンの過剰」というキーワードをあげ、村上春樹小説を評した。
現代美術館のキュリエーターの長谷川裕子さんは、妹島和世さんの建築を「非シニフィエシニフィアンの連続」であるといっていた事がある。
どちらの作家も共通して、アカデミーにたいして、デタッチメントな姿勢を貫き、国内外で非常に高い評価を得ている。





タネあかしされることのない意味ありげな何か。
けしてタネあかしされることのないシニフィアンは、自分たちだけの解釈を持つことを許している。
シニフィエを欲求させる。

たとえばポツダム広場じゃなく、何の変哲も歴史も名前もないような広場で、
「ここははじめて女の子に告白した場所なんだ」とか
「この坂をのぼったところで、君はカタギに戻るといったよな」とか、
社会経済的空間の網目をほつれさせるような、個人的な記憶に結びついた物語の貼り付けや、意味づけが都市のいたるところで展開していく。マイクロ・アーバニズム。小文字の都市論。


たとえば京都のお寺を見学する時、ついつい正座をしてしまう。


建築には、環境管理的な身体にたいする働きかけを超えた、もっと精神的なナイーブな領域に働きかけてくるものがある。
バス停の告白にグッとくる僕でもそういったものにたいする感覚は健在。
崇高な美を備え、喜びを喚起するような建築がある。自然と背筋がのび、深呼吸したくなるような建築がある。



ショッピングセンターの研究者が、多くの買い物客の格好が、ジャージにサンダル履きであり、それは郊外のショッピングセンターになると、車で移動する客が多く、家→車→ショッピングセンターと 内部がシームレスにつながっていることに起因するのではないかとおっしゃっていた。
行き先によって「出かける」という行為に含まれる心構えに強度がうまれている。目に見える形で、服装に現れる。


コンビニエンスストアに買い物に行くのに、わざわざネクタイをしめていくひとなんていないだろう。




目的地によって、そこまでの道のりは、半外部にも、外部にも感じられる。








外部のない、内部において、なお外部の人のである僕たちは、以前は外部であった場所を内部として捉え、内部にいるときのように振るまってみるも、自分が外部の人間であるということを一時も忘れることができない。しかたなく、内部のもので、外部の世界を作ろうとする。これがマイクロ・アーバニズムである。