建築は隠せない (こともない)   -マイクロからマクロまでのアーバニズム-

建築こそ、中立的なメディアじゃないか!と思っていましたが色々な方法で、結果的に建築を隠していることなんてことは、たくさんありますね。

欠点は隠すと余計目立つように、隠し方次第、または見せ方次第でそれが、「隠蔽」になったり「奥ゆかしさ」に
なったりします。
残念ながら「耐震偽装」なんていう見えない部分での隠蔽なんてこともありました。

それでも多くのまっとうな建築はたくさんあり、そこに出資した企業の姿勢や経済力、計画者たちの計画、条件としての法規、最適であろう工法なんてものを知ることで、現在とくらべて当時の状況を読み取っていくことはできますし、それがどのように今使われているのかということには、現代がありありと反映されています。
建築は、多くの見えない規制や、要求や希望が、見える形で目の前に現れているのです。
「建築家」と呼ばれる人たちの設計する建築は、かなり面倒な要求に答えようとしていたり、こたえているのでみればみるほどおもしろいんですね。
「世界を表現してほしい」とか「やわらかくかろやかに」とか、建築家には、ナイーブで感傷的で些細なよくわからないことを言っていいんです。
「建築家」はアーティスティックな建物を設計すると誤解されがちですが、ホントは些細な要求を形にしているんですね。それはアーティスティックと呼べるでしょうか。(なかには違うひともいるかもしれませんのでご用心。)







ともあれ 


あれこれ「建築を隠すこと」をめぐることをピックアップしていくことで、「建築を隠す」ってことはどうことなのか考えてみたいのです。
同時に逆説的に、建築を中立的なメディアとして、みることができるのではないかを考えてみたいんです。


それではスタート



japanese house
たとえば一般的に日本の住宅では

ブロック塀を家の周囲にめぐらせたり、生垣をめぐらせたりします。広い庭付き一戸建てでは、庭にめんした一階部分はオープンにしたいとだれもが思うでしょうし、だからといって外から丸見えは困るのでこういったものが必要になってくるのでしょう。区画方法や、土地所有の制度の問題から必要とされる場合もあるでしょう。
一概にプライバシーの話だけで、生垣やブロック塀を理解するのは間違いでしょう。



art
たとえばアーティストが

こうやって一生懸命隠していますが、これは逆に目立つパターンですね。
クリストという芸術家グループ(?)の作品ですが、プロジェクトのドローイングや、包んだ布を細かく切って
うったり、援助金なんかをもらってプロジェクトを進めているようです。
建築を隠すっていうことが、やり方しだいでは、多くの人の支持を受ける「アート」として成立しています。
アンディー・ウォーホールは銀髪のカツラをかぶっていいましたが、アートの人はなにかと隠しかたがカッコイイですね。



politics
たとえば首相官邸

雨宮かりんさん達が、デモの一環として「首相官邸見学ツアー」を実行したところ途中で、警察に止められ逮捕者が出るなんて事件がありました。
あまりテレビのニュースでは報道されてなかったような気がしますが、国家権力が躍起になって「建築を隠」そうとしたとても興味深い事件でした。これもまた、隠すことで逆にもっと気になるパターンですね。

「ちらかっててちょっと今日は無理」とか「バルサンたいててはいれません」とかそういうレベルじゃない、断り方なので、逆に想像を掻き立てられます。

かといって知らない人を大勢、家に招きいれることには、誰だって抵抗があると思います(味方をするわけじゃありませんが)。
でも「誰々がウチにくるんだけど、都合が悪いからケイサツくん全力で止めて頂戴。」だなんて、マンガみたいですね。










日常的なレベルから、政治やアートにいたるまで、間をぶっとばしてかたよった書きかたをしましたが、いったんここでこのエントリーを終了します。


建築は隠せない(こともない)