ありうるべき空間の完全な探索 

ちまたで話題の「Free」を読んで、本題とはあまり関係のない事をSF的に妄想する


タンポポの考え方」
ありうるべき空間の完全な探索

たくさんの種子を犠牲にしてでも、タネをを遠くに飛ばす。
近くに落としたほうが、芽が出る確率は高いがすぐに過密がおきることがわかる。
春になると、アスファルトの裂け目という裂け目にタンポポが咲いている。
タンポポは、種子が潤沢であるため、一粒一粒はとるに足らない。
そのことを利用して、遠くに飛ばしアスファルトの裂け目を狙う。
都会で生き抜くタンポポの知恵。



とある家具屋さんでは、自宅の簡単な図面があるとそれを無料で3Dモデルを作ってくれて、家具の配置をシュミレーションできる。

コノ場合、いちいちお店に行かないとダメ
いまでは、google sketchup という優秀な3Dモデリングソフトが無料なんだから、お店側が家具の3Dモデルを配布すれば家でもシュミレーションができる
コノ場合、いちいsketchupを覚えなければダメ

両方とも図面があることが前提なので、お店に行く時間とskecthupの使い方を覚える時間の比較になる
お店が近ければ、お店に行くほういいかというと?

skecthupは、上記のことを目的とした場合一時間あれば覚えられる。

一度skecthupの使い方を覚えれば、スキルが身について今後も家具を買うときにシュミレーションをすることができる。

googleと連帯して家具データを配れば広告にもなる。

もはや3Dモデルは潤沢なものであり、よほどの完成度のたかいものでないかぎり、製作にかかるコストは取るに足らない。

不動産屋さんが現れ、その家具を置くには、こういったタイプの部屋がいいのでは、という3dデータつきのダイレクトメールが送られてくる。

google earth の室内までモデリング化されたデータつきのダイレクトメールで、窓からの景観を眺める

なんらかの価値を生むであろうあらゆるものがモデリング化される。

アスファルトの裂け目も? 

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

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ショッピングセンターがおもしろい

我買うゆえに我あり    オリビエーロ・トスカーニ

近場で最近オープンした、「アーバンドック・ららぽーと豊洲」を見学しにいく。

200近くの店舗を一つの建物に収めるためのダイナミックな構成への関心と、インテリアの可能性に関心があった。

構成の枠組みの中で、各エレメントの多様性が促進されることによって、構成が強調されるという仕組みがコールハースの住宅の非連続的な風景の連続する風景をうみだしていたけど、その逆に多様なテナントを想定して作られているであろうショッピングセンターにおいて、枠組みをどのように決定して、テナントの多様性がどのように全体の構成に働きかけているのかに関心があった。

不動産屋さんは、アウトレットモールの賃貸料で増収しているそう。デフレおつ。オフィスの空室率は上がっている。

ショッピングセンターのオープン件数は減少傾向にあり、郊外では周辺にシャッター商店街を生んでしまうという問題もうんでいる昨今。

CMの観点からいっても、より低コストでよりたくさんの機能を内包するという観点からいっても、ショッピングセンターの考え方は有効だそう。

アミューズメント施設恐怖症という強烈なバイアスのせいか感じる違和感を抱きつつも、ショッピングセンターから学ぶことはイロイロありそー。

ショッピングセンターがおもしろい

「三井ショッピングパーク・アーバンドック ららぽーと豊洲(アーバンドックららぽーととよす)とは、東京都江東区豊洲二丁目に位置するららぽーとのショッピングセンターである。2006年10月5日にオープンした。東京都江東区豊洲2丁目区画整理事業の一環として、旧石川島播磨重工業(現IHI)東京第一工場跡地であるアーバンドック内に建設された。アーバンドック ららぽーと豊洲



LAGUARDA.LOW ARCHITECTS HPより転載

船が建物にぶつかっているようなプランにはじめは驚いたが、舟形プランの曲線の凸面は移動空間と接する面の表面積を増やしているし、視覚的な働きとしては消失点をけして、見通せない空間を作っている

フィールドノート
見学日時
2010/02/21 日曜日 15:00-17:00

車道をはさんだ二棟を空中で接続する歩行用車用ブリッジは、無骨H鋼のトラス組み。

オレンジ色の表層を持つ、不定形なヴォイドがエントランス、長方形の隅を少しはずした位置にエントランスを配している。
横断歩道から斜めに移動しながら内部へと入っていく。

ファサードのスクリーンが、工場の跡地であることを暗示的に示しているように感じた。
曲げ加工H鋼のフレームにエキスパンドメタルを貼り付けた

四つ船形プランをもつテナントスペースの表層の色はそれぞれ異なっているが、内部の機能の分類を示すものではない。そのようなテナントスペースの配置の可能性を示しているようにも感じる。小さな窓から、店舗の名称のスーパータイポが除き内容を中庭に対して示している。

舟形プランのもつ曲線は、店舗同士が上下で視覚的に結ばれる吹き抜けとは対照的に先が見とおせないような空間を作っている。ふくらみのある面を表側にしているため、直線よりも移動空間との表面積が広く取れるようになっている。

舟形プランは、吹き抜けの形を複雑なものにしている。
曲線で吹き抜けを縁取ることによって、舟形のプランを内部空間においても体感できるようにしているのではないか?
そのことによって内部における裏(海側・船形・曲線)と表(エントランス側・長方形・直線)を認識できるような仕組みになっているのだろうか。

4つの舟形プランをもつブロックは、異なるつながり方をしており、内部が複雑で自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚に陥る。
エスカレータの配置も場所ごとに異なり、複雑さを生み出している。
内部において、自分の居場所を確認するためには、マップテナントスペースとを照らし合わせる必要があった。

コノ字型のプランの内側は、2階以上はコノ字型になっており、吹き抜けを通して各フロアが視覚的につながる。天窓からの光が、一階まで落ちる。

浮世絵美術館においては、舟形プランの曲線部分は、直線を立ち上げた壁との対立性によって、強調されてサインのとしての役割をする。

最上部には駐車場スペース、駐車場がこんでいればそれを見た人は、人ごみへの嫌悪感を抱きそうなもの。

テナントスペースには塾や保険会社、キッチンスタジオなどがはいっており、集合住宅と一体的に開発された区域ならではの内容のように感じた。

コムサのテナントは、子供服スペースがおもちゃ売り場の近くにあり分離しているが、内装のテイストをそろえている。
コールハースジェネリック・シティの考え方につながるような戦略
同じであることが逆目立つ

エレベータがクロスして配置されている効用は?























構成を示す店舗スペースのアクソメ図


概要
所在 東京都江東区豊洲二丁目4番9(旧6街区)
東京都江東区豊洲二丁目1番14(旧4-1街区)
交通
最寄IC 枝川・塩浜・木場・豊洲
東京メトロ有楽町線ゆりかもめ豊洲」駅徒歩3分
敷地面積 約67,499m2
規模構造 鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)地上5階建て
延床面積 約165,037m2
店舗面積 約62,000m2
店舗数 190店
駐車台数 約2,200台
土地所有者 石川島播磨重工業株式会社
事業者 三井不動産株式会社(借地人・建物所有者)
建物デザイン 株式会社ラグアルダ・ロウ・棚町アーキテクツ(ジョン・ロウ)
ランドスケープデザイン 有限会社アースケイプ
基本設計 株式会社日本設計
実施設計・施工 大成建設株式会社

隠せない(こともない)   -マクロからマイクロまでのアーバニズム ♯2-

今回の舞台は、いわずと知れた「神宮外苑」です。
明治天皇の聖徳を後世に伝えるために計画されたいったいです。
明治神宮の外側として「外苑」という名称がつかわれているのです。
敷地の大部分は当時、市民の資金により計画された市民に開放された芝生のオープンスペースでありましたが、宗教の法人化とともに現代にいたるまでにスケートリンクや野球場テニスコートなど有料施設が計画され始め、ほとんどの部分が経済至上主義に特化したような、一大スポーツ施設エリアとして開発されてしまったのです。



なにはともあれ、ここでは一体なにが目的で、建築が隠されることになっているのかよくわからないというところが味噌です。というか僕がどうしてか知らないだけかもしれませんが。

とにかく不思議な隠し方をしているんです。


これは敷地内にある聖徳絵画記念館です。

この建築となにかを繋いだ、または何かの方角にむかって伸びる軸線上に、かの有名な銀杏並木があるんですね。
この軸線がやっかいで、鬼門よけの方角でも、明治天皇のお墓にもぶつからないないんですね。
一度、スピリチュアル系のひとのブログで、この軸線の意図は公開できないくらいヤバイものと書いてあったのを見たことがあります。

西洋のヴィスタ(アイストップ)・アヴェニュー(軸線)に影響されて、計画された軸線ですが、スピリチュアル的ヤバさ(何のこっちゃ)をのこしていくとろなんか日本らしさが出ていていいですね。




さて、肝心の「建築を隠す」です。





これは聖徳絵画記念館の正面入り口から、軸線をながめた写真です。

















そしてこれが正面玄関の中心に立って、軸線を眺めた写真です。




なんぼのもんじゃい! 銀色の直法体に軸線上の白いビルがすっぽり隠れるんです!
法規的には同一条件ですから隣のビルと比較して、高さが低いの不思議です。後ろのビルとかみえちゃってるし。


アーなんだかスピリチュアル的にヤバくてコワクなってきますね。それが狙いでしょうか?おどかし目的の都市計画でしょうか。(なんちゃって)

銀杏並木は、軸線の風景にパースをきかせるように、銀杏の木の高さを調整していたりします。かなり凝った設計になっています。




ちなみにこのビルは、セピア絵画館というギャラリーや、お寿司やさん・不動産屋さんなどが入る、一般的な雑居ビルです。


ちなみにちなみに 聖徳絵画記念館は実寸の馬の剥製が置いてあったり(コワイです)内部では仕上げに使っている大理石に、丁寧に化石がここに埋まってますよシールが貼ってあったりして楽しいです。

外苑は、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の舞台にもなっているトコロですね。小説を書こうと思ったのもここの球場ですね。


なにはともあれ

建築は   隠せない(こともない)

建築は隠せない (こともない)   -マイクロからマクロまでのアーバニズム-

建築こそ、中立的なメディアじゃないか!と思っていましたが色々な方法で、結果的に建築を隠していることなんてことは、たくさんありますね。

欠点は隠すと余計目立つように、隠し方次第、または見せ方次第でそれが、「隠蔽」になったり「奥ゆかしさ」に
なったりします。
残念ながら「耐震偽装」なんていう見えない部分での隠蔽なんてこともありました。

それでも多くのまっとうな建築はたくさんあり、そこに出資した企業の姿勢や経済力、計画者たちの計画、条件としての法規、最適であろう工法なんてものを知ることで、現在とくらべて当時の状況を読み取っていくことはできますし、それがどのように今使われているのかということには、現代がありありと反映されています。
建築は、多くの見えない規制や、要求や希望が、見える形で目の前に現れているのです。
「建築家」と呼ばれる人たちの設計する建築は、かなり面倒な要求に答えようとしていたり、こたえているのでみればみるほどおもしろいんですね。
「世界を表現してほしい」とか「やわらかくかろやかに」とか、建築家には、ナイーブで感傷的で些細なよくわからないことを言っていいんです。
「建築家」はアーティスティックな建物を設計すると誤解されがちですが、ホントは些細な要求を形にしているんですね。それはアーティスティックと呼べるでしょうか。(なかには違うひともいるかもしれませんのでご用心。)







ともあれ 


あれこれ「建築を隠すこと」をめぐることをピックアップしていくことで、「建築を隠す」ってことはどうことなのか考えてみたいのです。
同時に逆説的に、建築を中立的なメディアとして、みることができるのではないかを考えてみたいんです。


それではスタート



japanese house
たとえば一般的に日本の住宅では

ブロック塀を家の周囲にめぐらせたり、生垣をめぐらせたりします。広い庭付き一戸建てでは、庭にめんした一階部分はオープンにしたいとだれもが思うでしょうし、だからといって外から丸見えは困るのでこういったものが必要になってくるのでしょう。区画方法や、土地所有の制度の問題から必要とされる場合もあるでしょう。
一概にプライバシーの話だけで、生垣やブロック塀を理解するのは間違いでしょう。



art
たとえばアーティストが

こうやって一生懸命隠していますが、これは逆に目立つパターンですね。
クリストという芸術家グループ(?)の作品ですが、プロジェクトのドローイングや、包んだ布を細かく切って
うったり、援助金なんかをもらってプロジェクトを進めているようです。
建築を隠すっていうことが、やり方しだいでは、多くの人の支持を受ける「アート」として成立しています。
アンディー・ウォーホールは銀髪のカツラをかぶっていいましたが、アートの人はなにかと隠しかたがカッコイイですね。



politics
たとえば首相官邸

雨宮かりんさん達が、デモの一環として「首相官邸見学ツアー」を実行したところ途中で、警察に止められ逮捕者が出るなんて事件がありました。
あまりテレビのニュースでは報道されてなかったような気がしますが、国家権力が躍起になって「建築を隠」そうとしたとても興味深い事件でした。これもまた、隠すことで逆にもっと気になるパターンですね。

「ちらかっててちょっと今日は無理」とか「バルサンたいててはいれません」とかそういうレベルじゃない、断り方なので、逆に想像を掻き立てられます。

かといって知らない人を大勢、家に招きいれることには、誰だって抵抗があると思います(味方をするわけじゃありませんが)。
でも「誰々がウチにくるんだけど、都合が悪いからケイサツくん全力で止めて頂戴。」だなんて、マンガみたいですね。










日常的なレベルから、政治やアートにいたるまで、間をぶっとばしてかたよった書きかたをしましたが、いったんここでこのエントリーを終了します。


建築は隠せない(こともない)

僕たちはバス停で意味のあることを話す  -マイクロアーバニズム-

あなたはこれまで屋外でバスを待っているときに、何か意味のあることを言ったことがあるでしょうか。けっしてないでしょう。あなたは建物の内部で意味のあることを言います。

ルイス・カーン建築論集』第6章p116


初老の女性二人組みが、下北沢の深夜のマックで「もし今度生まれ変わったら、男か女か」という話を永延していた。
僕はなんかいいなっと思い。その後つづく壮絶なトランスジェンダーな議論や、結婚哲学にしばらく耳を傾けていた。
まさに環境管理型設計の代表格である、マクドナルドの店内で、すこし硬いイスに座ってj-popをBGMに意味のある(?)話がされている。




たとえば、高校生のカップルが、バス停で「君が好きだ」「わたしも」なんていっていたら。
僕はなんかいいなとおもってしう。体育館裏もいいけど、バス停。

たとえば、高層ホテルの70階のバーで、高校生のカップルが、「君が好きだ」「わたしも」なんていっていたら。
肩がこりそうだ。そういうのが好きな人ってもうそんなにたくさんいないんじゃないだろうか。













僕たちは、何の変哲もない日常的な風景の中で、場所で、意味のあることをことを言うことに躊躇しない。
人生における決断や、プロポーズの言葉や、ビジネスの契約を。
場所を選ばなくなったのか。そうすることに特別な価値を見出しているのか。









かつて建築は、じっくり腰を据えて、意味のある事をはなす所だと考えられていた。


妹島和世さんは、「人が建築の中をごにょごにょと動く建築を設計したい。」とおっしゃっていたそう。
妹島さんの住宅に住んでいる人は、家具なり自分の愛着を感じているものを側に置いておかなければ、決して暮らせないといっていたそう。







宮台真司さんは「シニフィアンの過剰」というキーワードをあげ、村上春樹小説を評した。
現代美術館のキュリエーターの長谷川裕子さんは、妹島和世さんの建築を「非シニフィエシニフィアンの連続」であるといっていた事がある。
どちらの作家も共通して、アカデミーにたいして、デタッチメントな姿勢を貫き、国内外で非常に高い評価を得ている。





タネあかしされることのない意味ありげな何か。
けしてタネあかしされることのないシニフィアンは、自分たちだけの解釈を持つことを許している。
シニフィエを欲求させる。

たとえばポツダム広場じゃなく、何の変哲も歴史も名前もないような広場で、
「ここははじめて女の子に告白した場所なんだ」とか
「この坂をのぼったところで、君はカタギに戻るといったよな」とか、
社会経済的空間の網目をほつれさせるような、個人的な記憶に結びついた物語の貼り付けや、意味づけが都市のいたるところで展開していく。マイクロ・アーバニズム。小文字の都市論。


たとえば京都のお寺を見学する時、ついつい正座をしてしまう。


建築には、環境管理的な身体にたいする働きかけを超えた、もっと精神的なナイーブな領域に働きかけてくるものがある。
バス停の告白にグッとくる僕でもそういったものにたいする感覚は健在。
崇高な美を備え、喜びを喚起するような建築がある。自然と背筋がのび、深呼吸したくなるような建築がある。



ショッピングセンターの研究者が、多くの買い物客の格好が、ジャージにサンダル履きであり、それは郊外のショッピングセンターになると、車で移動する客が多く、家→車→ショッピングセンターと 内部がシームレスにつながっていることに起因するのではないかとおっしゃっていた。
行き先によって「出かける」という行為に含まれる心構えに強度がうまれている。目に見える形で、服装に現れる。


コンビニエンスストアに買い物に行くのに、わざわざネクタイをしめていくひとなんていないだろう。




目的地によって、そこまでの道のりは、半外部にも、外部にも感じられる。








外部のない、内部において、なお外部の人のである僕たちは、以前は外部であった場所を内部として捉え、内部にいるときのように振るまってみるも、自分が外部の人間であるということを一時も忘れることができない。しかたなく、内部のもので、外部の世界を作ろうとする。これがマイクロ・アーバニズムである。

lang-8

lang-8をはじめる。
SNSサイト

勉強したい言語で日記を書くと、ネイティブの利用者が添削を行ってくれる。
もちろん日本語を勉強している人の日記を、僕が添削することもできる。
こんなサイトあったらいいなぁ が形になっていた。

僕が「タダで英語の教育が受けられるなんて驚き」という事を書いたら、17歳のシンガポールの男の子にキビシイ添削と「英語の教育が受けられるわけではなく、あくまでサプリメントとしての役割と考えた方がいいでしょう」とつっこまれる。
おっしゃるとうり。
イギリス人の女の子に、あなたの英語グットなんていわれちゃうと、鼻の下がのびうかれる。

イロイロな国の人が、書いている日本語ブログも、見ていると直したくなってしまうのが不思議。うまくできている。
ただし自分の日本語がただしい文法にそっているのか、わからないので下手な添削はできないので緊張する。僕より断然日本語を文法的に正しくハイレベルに使っている人なんかもいてあせる。

レスポンスもはやく、三人の添削を受けたけど、それぞれ少しづつ違っているのもこちら側のリテラシーが問われるところかもしれない。

語学とWEBの親和性は高いけど、建築とWEBの親和性はどうでしょう。
クラウドコンピュ−ティングと構造解析はつながりそうな気がするけどどうでしょう。(どちらもド素人)
思想地図の最新号は『アーキテクチャ』だそうけど(しばらく読めない)どうでしょう。

WEBネアンデルタール人の僕には、応用的な思考は不可能に近いですが。
そもそも、2ちゃんねるアレルギーの僕自身、WEBとの親和性がだいぶ低いですが、WEBのセカイでは過剰な便利が無料なことが多くて驚きどうし。ビタミンCのサプリメントは有料なのに。